学生時代
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 蔦のからまるチャペルで、讃美歌をうたい祈りを捧げたくらいだから、この人はほぼ間違いなくキリスト教信者と看做していいだろう。

 ところがこの人“清い死を夢見”ているのだ。

 教祖様に殉じたいという意図かもしれないが、そもそもキリスト教では自殺を認めていないし、教祖様も自殺ではないし、 磔の刑が“清い死”とはとても思えない。

 宗旨を履き違えて信仰した者は、多くの場合怪しい新興宗教を創設させる危険があるのだ。
行く末を注視する必要がある。

 

恋するフォーチュン・クッキー
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“フォーチュン・クッキー”とは、調べによると海外の中華料理店の販促企画を起源として、菓子の中に御神籤を封入した代物らしい。
現代では、衛生的に問題があり商業コンプライアンスを問われネットで炎上する恐れがあるから注意が必要である。
それは、まあええ。

 この女、成就見込みの極めて薄い恋愛感情に直面しているため、フォーチュン・クッキーに奇跡の大逆転を目論んでいる節が有る。
 愚かな勘違いに気付くべきだ。

 ご存知のように、御神籤に願掛けの効力などない。ただの占いであり、未来の方向性を示しているに過ぎない。
 神社で、お祈りもせずに御神籤だけ引いて安心してるオメデタイ奴などいないだろうし、根本的にこの歌の中では “フォーチュン・クッキー”の表示結果を明らかにしていないが、“大凶”が出る可能性だって充分にあり得る筈だ。

 もしも期待通りの“大吉”が出たとして、それで恋の成就を確信して大喜びされたら、相手の男にとっては恐怖以外の何物でもない。
 やがて“恋する丑の刻参り”に発展する危険は大きく、それは“占い”よりも実効性が高かったりするのだ。

 

被災地復興
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 人生で、何もなければ一生知らないままだったろう地域地名。
 “長崎県雲仙市”
 “福島県南相馬市”
 “北海道奥尻郡”
 “新潟県長岡町”
 “阪神・淡路の各地名”
 等々・・・。  

 今では恐らく、日本国民のほとんどは記憶に有る筈である。大災害により繰り返される報道で周知されたのだ。
 発生から被害状況、復興の現状など報道でどこまで真実が伝えられているのかはよく知らない。
 風化させないと提言されながらも、次から次へと起る事件事故災害で、記憶が薄れていくのも事実である。

 通信販売を生業としていると、時々記憶の中の住所からご注文を頂く。
 例えば災害に遭ったとして、生活を立て直した後で音楽に金を使えるのは最後の最後だろうという気がしている。
「ああ、ようやくこの地域の人達にも平穏な生活が戻ってきたんだな」
 どんな情報や報道よりも、確実に復興を実感できるのだ。
 レコードを梱包しながら、温かいものがこみ上げ不覚にもたまに涙ぐんだりする。

 

涙くんさよなら
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 この世の中は悲しいことだらけなので、涙くんとは離れられない腐れ縁だと、この男は言う。
 しかし、このたび恋人が出来たから、しばらく涙くんとは逢わずにいられそうだと、安心しているようだ。

こいつも、大きな勘違いしている。

人は、ある年齢――意外に早く思春期以降――あたりから、落涙の発生場面と状況が大きく変化するのである。
 喜怒哀楽の“哀”時だけ泣くのは児童期までであり、成長につれて“喜”および“楽”の涙比率が激しく増加する。
 いわゆる“感動の涙”“歓喜の涙”というやつである。
 特に、中高年期に差し掛かると、涙腺は一週間履き続けたパンツのゴムよりダルダルに緩みまくり、 何を見てもだらしないほどにすぐ、泣く。
 反比例して、悲しくて泣く機会は大幅に減少するのである。

 つまりこの男、相当人生経験貧相にして未熟な若造と見ていい。
 大人になると、感性が豊かになる程に“涙くん”とは懇意にする必要があるのだ。 下手にさよならなどしようものなら、スカスカに枯れ果てた廃人の末路しか待っていないことを、まだ知らないのだろう。

 因みに“怒”で泣く特殊な人種は、いないとは言わないが面倒くさいのでここでは割愛する。

 

グッドナイト・ベイビー
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 例えば“結婚披露宴”や“優勝、受賞記念パーティー”とか――。
 これらは、当事者の栄誉を祝福すると共に、関係者に幸せを分配するという意味合いもある。

さて、この主人公。恋愛関係にある彼女がいるけれど、彼女の父親に交際を反対されているらしい。
しかし、いつかはきっと理解してくれるから今はじっと我慢して、とりあえず今は寝とけ。
 と、いう歌である。

 何故、反対されているのか?
 その答えは、歌の中にある。

“やっと見つけた この幸せは
 誰にも あげない”

 てめえの幸せを、一切他人に分け与える意思はないのである。
 なんたる身勝手。ジコチューの権化。
 さては、結婚式も披露宴も実施せず、新居にも友人知人など立ち入らせないつもりだ。
 俺が父親でも、絶対にこんな男との交際など、認めん。

 

カサブランカ・ダンディー
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 どれだけ我侭だろうと聞き分けがなかろうと、女の頬を2度もビンタくらわせれば、 立派なドメスティック・バイオレンスであり、暴行容疑で現行犯逮捕される案件である。
 しかもその直後、背中を向けて煙草ふかしたりしてるところを動画撮影でもされてネットに晒されたら、 昨今の嫌煙事情も相まってこの男、人間のクズとして社会的に抹殺されるだろう。

 たとえそれがハンフリー・ボガードだったとしても――むしろ著名人だからこそ、 容赦なく世間から叩きのめされるに違いない。
 そ〜ゆ〜時代になってしまったのだ。

 ジュリー、あんたの時代はよかったな。 

 

理系と文系
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 昨今、街の外食店では“見場”に全力投球が増えているそうだ。
 つまり、提供商品の写真映りにより、ネットの口コミ宣伝効果が凄まじいらしいのだ。
 挙句には、綺麗でカワイイ写真が撮れたら食わずに残したり捨てる者さえいると聞く。
 方や、見場はキタナイけど美味い店もある。
 どっちにしても、両店は人気店として儲けている。

 音楽の観賞姿勢としても、乱暴に大きく2種類に分類されると思っている。
 理系と文系である。

 理系で音楽を聴く人々は、ともかく“音質重視”を標榜し、時には録音をオシロスコープで計測して 周波数特性やらダイナミックレンジやら、ムツカシイ単語とデータを並べて“いい音”を定義する。

 文系で音楽を聞く人々は、あくまで楽曲の旋律や演奏と歌詞内容に言及する。

 どちらが好いという話ではない。もちろん両立した方が好いに決まっている。 “いい音楽”を語る上での優先順位の話である。
 理系派は、同じ曲でも録音状態の悪い商品は、はっきりと“クズ”と切り捨てる。
 文系派は、好きな曲が聴けるならば、ノイズ交じりのトランジスタラジオでも構わない。

 先の外食店にしても、提供側が“味”と“見場”とどちらに主眼を置こうと、売れるなら商売としては正解である。
 何が言いたいかちゅうと、人はそれぞれ“音楽”に求める“品質の定義”が違うのである。
 まったく違う土俵で、不毛な“いい音楽”論争しているのを聴く事があるけれど、 「この冷蔵庫は洗濯が出来んじゃないか」と文句つけても意味がないのである。  

バス・ストップ
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 場面と状況設定を整理してみよう。

 そこはバス停留所である。
 バスを待つ、手を繋いだ男女がいる。どうやら女性は泣いているようだが、相手に顔を見られないように伏せている。

 そしてこの二人、女性側の“過ち”を原因とした破局が確定しているのだが、この男の気持ちが微妙だ。

 女性側の視点として、今後の一人暮らしを大いに嘆きながらも、 自分が泣いていると周囲に奇異な目で見られる男を心配したり、男が“甘い言葉”を口走りそうだと予測している。

 するか、そんなもん。

 原因が女性側に有る以上、交際の決定権は男性側に委ねられ、許すなら別れる必要はない。
 女性がいくらグダグダと未練述べようと、男性側には最早ウザいだけであり、 さすがに義理と人情でここまで一緒に来たけれど、内心では
「とっととバス乗って立ち去れぃ」
 と思っているような気がするが、如何だろうか。

 因みに、女性の“あやまち”の詳細は明確にされていない。だいたい予想はつく。

 

愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない
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 文法的に危うい表現である。

 “傷つけない”のは“君”なのか“だけ”なのか?
 例えばこれが“君を傷つけない”なら、主旨は明確である。
 “君に対してわがままな狼藉や乱暴はしないよ”と理解していい。

 “君だけ”と対象を限定したことにより、“君以外”が出現するのだ。
 “君”が目的語ならば、
 “君は傷つけんけど、君以外に対しては傷つける可能性があるよ”
 いちいち、そんなこと言う必要はないが、一途な恋愛感情の発露ならば止むを得まい。

 しかし、余計な“だけ”を目的語とすることで、違う読み取り方が成立する。
 “傷つけない”否定表現を“だけ”に繋げると、逆説的に限定解除した肯定になるのだ。
 “僕は君だけ限定で傷つけるわけではない。君を含めた誰でも彼でも手当たり次第に傷つけるのだ。どや、わがままだろぉ〜?”
 何を考えているのかこいつ、とも思うが、そ〜ゆ〜ガサツで乱暴な奴も世の中にはいる。

 よくわからないか?
 しょうがないじゃないか。俺の表現能力が稚拙なのは学生時代に国語教師と反りが合わず成績不振だったからだ。

 しからば、判りやすい症例で示そう。
 例えば、誰かとすきやき鍋を突いていたとする。その際、相手がこ〜言った。
「おみゃぁさぁ、わがままに肉だけを食うなよな」
 さて、どう思うだろう?

 “肉だけ限定で食うなよ。一緒に他の白菜やシラタキも食えよ”

 あるいは
 “肉だけは絶対に食うなよ。白菜やシラタキとかだけ食ってろよ”

 肉を食っていいのかいかんのか、正反対の理解が可能となる。

 つまり、そ〜ゆ〜ことである。
 だからど〜したと言われても返す言葉はないが、こんなダラダラ長い題名付けたりするから俺が勝手に引っかかってしまった。

 

音楽の価値
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 極希にだが、商品についてこんなお問合せを頂く。

「そのレコード、価値あるかい?」

 店としては、辛うじて“流通頻度”と“商品状態”においてのみ、希少性のご案内はさせて頂くが、 本来お客様の求めている“価値”については、内心「知らんがや」と思っている。
 お客様の考えている“価値”とはつまり

「高く売れるか?」
 に、尽きるのだ。

 正解がもしあるなら、世の中の中古レコード店主は皆大富豪である。
 ほとんどの同業者は、拙い知識と経験と調査と勘で危うい予測を立てながら苦悩している。

 そもそも“音楽の価値”――。
 先般、“ヘイ・ジュード”のポール肉筆歌詞メモが約1億円で売れたんだそうだ。
 買った人にとっては1億円の“価値”が存在したのは事実だけれど、 例えば今、表の公園で遊んでいる児童にそれを見せたら恐らく
「古臭い紙切れ、言わば“ゴミ”」に過ぎないのも事実である。
 どちらも間違いではなく、価値基準は万人個々それぞれでしかない。
 我が子が発表会で一所懸命歌った録音は、ご両親にとっては宝物だけれど、 見知らぬ他人が金払う可能性は薄いだろう。

 少々話は逸れる。
 もし、食事しながら読んでいる方がいたら、この先は読まないことをお勧めする。

 ある程度、人生経験を積んだ人なら、何度か経験があるだろう。
 それはそれは見事で、色形艶質感までほぼ芸術作品とも思える“うんこ”をしたことが。
 是非とも誰かに見せて、自慢したくなった筈だ。
 そして多くの人は、しばらく愛おしく観賞した後に、 わが身の将来と地位と名誉を鑑みた上で披瀝を断念し、断腸の思いで水洗レバーを押した。

 ここで、水洗レバーを押さないのが、つまり“収集コレクターの思想”と考えていい。  

喝采
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 “歌手”という夢を追って、3年前に恋人を無下にフッて上京したのだ、この女。

 その間の関係性については語られていないが、行間を読めば音信不通と考えるのが正しいだろう。

 死亡通知は、いったい誰が送ったのだ?
 葬式、行くか?
 斎場で、呆けてしまうほど、悲しいか?

 何か、怪しい。

 

ファイト!
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“闘う君の歌を
 闘わない奴等が笑うだろう”

 笑われようと褒められようと
 少なくとも奴等は歌を聴いたのだ。

 大成功じゃないか。

 

to be continued
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