揃ってよく肥えた、女性トリオ芸人のことではない。
例えば、意中の女性の部屋へ始めて訪問する機会に恵まれたとしよう。
多くの男性諸兄はきっと女性に「おや?どこかでお祭りかしら」と訝しがられるくらい、胸の太鼓が激しく打ち鳴らされているだろう。
それでも内心悟られぬよう平静を装いつつ、何気なく室内の調度や装飾を眺める。そんな時――。
ふと見たCDラックに“森三中”が、もしも5枚以上並んでいたら気をつけよう。
“森山中”とはすなわち、恩讐と情念をグツグツ煮詰めた歌姫3大女帝
『森田童子』
『山崎ハコ』
『中島みゆき』
今、目前にあるそのお付き合いを更に進展させる希望がもしあるのなら、相当の修羅を覚悟しておいた方がいい。
一歩間違えば、きっと彼女は白装束で藁人形と五寸釘を手にした般若へと変貌し、あなたは地獄を見るだろう。
“誰か、止めて”と言ってるからには、野郎側はこのロマンティックには回避の方針である。
しかし、意に反してロマンティックが進展しつつある現状に困惑している。
長いキッスをしておきながら「遊びなの?」と問われて返答が出来ないのは、図星だからだ。
因って、せつなくて胸が苦しくなるのは、この男が
「ヤベェことになったな」
などと不貞え考えを持つ、究極のチャラいクズだからに他ならない。
アナログLPレコードの付録とし多く採用されているのが、ポスターである。
多くはB2サイズの大判を6つ折にして、レコードジャケットだからこそ収納が可能であり、
CDサイズでは物理的に封入が不可能である。
だから、CDの紙ジャケ等で復刻されても、ポスターはアナログ唯一無二であり、しかも完全非売品につき、
希少性という点においては、レコード本体よりもレアなのである。
作品によっては本体よりも付録ポスターに価値を認める場合も少なくないけれど、 ポスターを“商品価値”で診る場合、絶対条件は“未使用”という点になる。
しかし、ポスターの“利用価値”は当然、壁に貼ってナンボであり、両者は絶対に相容れない関係にある。
極端に言えば、ポスターは貼られて瞬間から、破損退色により商品価値は滅してしまうため、市場流通数は確実に減少し、
反比例して未使用品の希少価値は上昇することになる。
多くのコレクター諸兄は、当然貼ったりせずに温存しているため、ポスターはその存在意義をまるで発揮できずに、
永遠に陽の目を見る事がない。
ポスターにとって、あるいは所有者にとって、どちらが幸せだろうかと時々考えたりする。
時々、アナログの門を叩く若いお客さんから問合せを受ける。
「プレーヤー、どんなん買ったらいいスか?」
昭和の音楽マニアなら三日三晩でも語り尽くせない薀蓄が出るくらい奥が深くピンキリの世界である。
極めて素朴に考えれば、高価な品は高性能でいい音が出るという単純正比例の製品だから、予算次第というのが真っ当な回答なんだろう。
が、しかし――。
ウチの回答は
「ともかく、可能な限り一番安いのをお勧めします」
音質云々よりも、現代の若人が“レコードを聴く環境”に馴染めるとは、残念ながらとても思えないからである。
スマホや携帯プレーヤーに慣れて、いつでもどこでも聞きたい時に聴きたい曲をボタン一つで即座に聴ける、
それらが全て出来ないレコード観賞は、ファッションや流行で数日体験したとしても、間もなく耐え切れず見向きもしなくなる未来が、
容易に想像できるのだ。
高価なプレーヤーが部屋の片隅で埃を被るのは忍びない。
二束三文の玩具みたいなプレーヤーでもレコードは聴ける。それなら捨てても後悔は少ない。
ともかく“レコードと聴く”という生活を試してみて、続けられそうならその時初めて音質や値段と相談した方のが、
絶対にいいとよ助言したいのである。
音楽ジャンルについては千差万別さまざまな定義があり、認識の差異により話がかみ合わない危険があるため、 ここで言う“ロック”とは“ハードロック、ヘビメタ、パンク”から辛うじて“ロックン・ロール、ロカビリー”程度の、いわゆる “やかましい音楽”と仮定している。おそらく間違ってはいないだろう。
そして男は、彼女がそれらの音楽を“聴かない=好きではない”点も、予め承知している。 その上で、あえて聴かせているということだ。しかも、ドーナツ盤てことはそこは逃げ場のない“部屋の中”である。
例えば、付き合って日の浅い彼氏との長距離ドライブ車内で、演歌ならまだともかくとしても、浪曲やら詩吟やらバグパイプやらを
延々と聴かされたら、それらの音楽を好きでなければまさに拷問である。
いったい何を考えているのかこの男。
一方的な趣味の押し付けは迷惑以外の何物でもなく、それで彼女を軟禁して更に近づいて欲しいなどとは、もはや興奮が炸裂しすぎて
思考破綻に至っていると考えられる。
彼女が薄笑いで目が泳いでいるのは、ほぼ恐怖のどん底に近いからではないか。
因みに、BMP190とは一秒に3拍を超えて、エックスの“紅”ですら160程度である点を鑑みて、こいつ何かする前に間もなく
動悸息切れにより意識混濁して鼻血噴出しぶっ倒れるだろう。
大ヒットを飛ばすと、歌手にとってはその一曲が名詞代わりになる。
一見さんが歌手を知る際に、必ず紹介される曲になるわけだが、歌手にとって自慢の歌や得意な曲が必ずしもヒットするとは限らない。
万一、意に沿わない曲がヒットしてしまうと、大げさに言えば歌手は破滅である。
有名なヒット曲だけで判断されてしまうため、それが好きではない聴衆はそこから先へは一歩も進んではくれない。
フォーク歌手が、演歌調の曲で大ヒットしてしまうと、演歌歌手のレッテルを貼られ剥がすのは極めて困難である。
他に数多名曲を歌っていても、そもそも聴く機会を放棄させてしまうのだ。
そんな具合に、まるで毛色の違うヒット曲のせいで、広く世に出られず一発屋として埋れてしまった歌手が何人かいる。
あの曲さえヒットしなければ、他の素敵な名曲が正当に評価されて違う未来があった筈だと、残念で勿体無くて地団駄踏みたくなるアーティストが、
確実に存在する。
当人にしてみれば「何を足踏みしてんの?」と、意に介さない戯言かもしれないが。
“朝の来ない夜はない”
困難や絶望に直面した際の、常套句である。
同様に “冬来たりなば 春遠からじ”なんてのもある。
でもよ――。
“朝が来れば必ず夜が来る”し“春の後は必ず暑い夏が来て短い秋のあと再び寒い冬になる”
これは、絶対確実である。
さしあたり、目先の障害を乗り越える提言も悪くはないけれど、あくまで急場しのぎであることも忘れてはならない。
“10000回駄目でも 10001回目は何か変るかもしれない”
それは事実だ。だけれども
“20000回やっても駄目かもしれない”
それも事実だ。確率的にどっちが高いか、それはど〜でもいい。
3000回あたりで、違う方法や道を選んだ方が賢いケースだって、きっとある。
無責任な扇動が迷惑になるかもしれないし、相手があるならそれこそ弊害を招くだろう。
頻繁に飛び込んでくる訪問販売や、電気や通信の電話勧誘がヒジョ〜にウザい。
受話器の向うで、奴らダイヤルしながら血走った目で“何度でも何度でも〜”と口ずさんでいる光景を想像してしまうのだ。
「最近の流行歌は聴かん。つまらん。その点、昔の音楽はよかったわい。今聴いても感動できるんじゃ」
この手の発言は、老害による年寄の戯言とされている。俺も、洩れなく言う事がある。
でも、昔の音楽を好むのは必ずしも郷愁ばかりではなく、オヤジになってもず〜っと詞に共感し続けていたりするのである。
してたりはするのだが、実はそれら、創ったのは二十歳そこらの若造達なのだ。
遠い世界に 西岡たかし 25歳
私たちの望むものは 岡林信康 24歳
あの素晴しい愛をもう一度 北山修 25歳
教訓 加川良 24歳
傘がない 井上陽水 23歳
今日までそして明日から 吉田拓郎 26歳
春夏秋冬 泉谷しげる 24歳
ぼくの好きな先生 忌野清志郎 21歳
ひこうき雲 荒井由実 19歳
神田川(かぐや姫) 喜多条忠 26歳
精霊流し さだまさし 22歳
サボテンの花 財津和夫 26歳
なごり雪 伊勢正三 23歳
時代 中島みゆき 23歳
眠れぬ夜 小田和正 28歳
大空と大地の中で 松山千春 22歳
乾杯 長渕剛 24歳
半世紀以上の人生経験を積み還暦間近のジジイが、大学出立ての若造の詩想に心震わせてど〜する、と
恥じ入ったりもするが、それよりも何だろう彼らの凄まじい老成。
若干二十代で既に人生を達観してる貫禄すら垣間見えるのだ。
もしかして歳を誤魔化してたのかもしれないが、だとすれば今100歳を越えた化け物魑魅魍魎である。
少なくとも彼らはやってきたのだから、現代の二十代だってジジイを泣かせる楽曲を創る事は可能な筈なのに、 ほとんど心が動かないのは何故だろうと不思議でならない。
ただ、彼らの歌に共通点を探すとすれば、内容が基本内向きの私小説である。
見え透いたメッセージや応援や啓蒙などで引き摺り回そうとせず、
聴く者を放っといてくれるから、純朴に染みるのかもしれない。
読書をするなら、教科書やマニュアル読むより、私小節の方が面白いのだ。
つまり、男は女を捨てて一人で北へ旅立ったのである。
しばらくして、女から「淋しい」旨の手紙を受取った事実から、連絡先は通知してあったことは確認できる。
分かち合った夢は破れたけれど、完全に別れたというわけでもなさそうな様子だ。
案の定、男は女の許に帰ることになったが、経緯には触れられていない。
ただ「逢いたい」からと弁明し、しかも“暖めるコートはない”点から経済的に逼迫している状況にあり、
可能性として“何やらしくじってすごすごと逃げ帰る”という図式が想定される。
みじめである。
“愛の灯はまだ燃えているか”としつこく確認するあたりは不安の裏返しと見るべきであり、
だからこそ、たかが帰省をあえて“旅を始める”などと大仰に鼓舞するのは男の悲しい見得だろう。
帰る予定時期の年末を“みんなの笑い声が聴こえる頃”と表現するのは、もはやそこに自分の居場所は
ないかもしれないと薄々悟っているようだ。
以上、総括して――
“燃えつきたロウソクに
もう一度 二人だけの愛の灯をともしたい”
無理だろう・・・残念だが
しみったれた男を、女は待たない。
「はいもしもし、コーダです」
「いつもお世話になります。○○と申します」
「はい?」
「オーナー様、いらっしゃいますでしょうか?」
「はい、おります」
「・・・」
「何でしょうか?」
「電話口はオーナー様でしょか?」
「いえ、違います」
「・・・」
「・・・」
「オーナー様に代わって頂けますでしょうか?」
「お断りします」
「は?・・・」
「何か?」
「え〜っと・・・」
意地悪をしているつもりはない。
そちらのお困りは判るが、用件も示さず相手を名指すのは失礼ではないかと考えている。
まず、用件を述べよ。話の内容によって、誰が応対するかはこっちが決める。
下らない内容かもわからんのに、いきなり「下っ端じゃ話にならんのよ」と見下されてるみたいで、
なんだか不愉快になるのだ。
面白そうな話なら「その件したらオーナーに代わります」と、気持ちよく丁寧に応対できるのに。
結局、俺がまっぺん出るのだが。
「ゴキ、出ましたで」
井上が嬉しそうに言いに来た。
奴が特にゴキブリ好きなわけでない。時々しか見ないものを見られたと、それだけでプチ興奮する単純な男である。
「退治したか?」
「しねぇよ。ヤダよ。あいつら飛ぶんでっせ。見つめると刃向かってくるんだもん」
退治しようとして逃げられたに決まってる。ダセえ奴だ。
「ゴキブリホイホイ買っとけよ。金やるから。領収証貰ってこいよ」
「俺がぁ?」必ず一旦ゴネる。面倒くさい井上である。
「じゃいいよ。俺買ってくるから」
「でもさ、ゴキホイってさ。中に死骸溜まるでしょ。あれ捨てるの気持悪いんスよね」
「だったら、薬食わせるのにするよ」
「でもさ、あれ、何処で死ぬん?」
「巣だろ」
「巣って何処よ。店の中でしょ」
「だろうな。外からいちいち来店しねぇし」
「どっかに死骸の山が出来上がるっての気色悪くねえスか」
嗚呼、面倒くせぇ。
「じゃぁ、ど〜せ〜ちゅうんだ?」
「そもそも、何で居るんスかね。あいつら」
そうなのだ。店には食いもんはコーヒー以外は何もない。特に間食禁止しているわけではないが、誰も食わない。
それにしても、奴らがど〜やって生存しているかは、確かに謎である。
「商品齧ってんのかもしんねぇな」
「え"。ゴキブリってレコード食うの?」真顔で驚いていた。
「知らんけど」
「ほぉ〜・・・・」しばらく考え込んだあと
「調べてみよ。そうスよね。退治するより居なくなりゃええんスもんね。発想の転換てやつですワ。
俺、頭ええ〜、きっと天才」
小躍りしながら部屋を出て行った。
井上には、小さな問題をあてがっておけば異常にこだわり他のことは一切忘れる性質がある。
排除しておけば、しばらく仕事に専念できる。
“二人の恋には 田舎が似合うよ”
初めて聴いた時には、なんちゅう破壊力のある歌詞だと手が止まったが、 後に調べてみたら、違った。これが正しい。
“二人の恋には 日向が似合うよ”
“ヒナタ”を“イナカ”と聴き間違える俺のリスニング能力にも落ち度はあるが、
発声法だって若干怪しいと、聴いていただければわかると思う。
それはともかく――。
“日向”だからと許される問題ではない。俺の考察は変わらない。
曲の背景は、男が女に惚れて愛の告白を企む独白である。
彼女の長い髪が風に揺れるのを見てうっとりし、君の声をずっと聞いていたいんだそうだ。
それはいい。恋愛に陥る動機は個人の自由だ。そして
“青い麦畑をさがしに行こう”と勧誘する。
これも、まあいい。デートプランを提案しているだけであり、乗っかるかどうかは彼女次第である。
その後だ。
昭和ヤング歌謡にありがちな、自己中心的希望押付型能天気短絡思考が炸裂するのである。
“二人の恋には 日向が似合うよ”
交際後の共通認識ではないのである。
男が勝手に言っているだけなのである。
いきなり言われた女性は、怪訝な顔して
「何でよ?」
と、引くに違いない。
「冗談じゃないわ。あたし日焼けすんの、やぁよ」
美白礼賛のご時勢、拒否られる可能性は、けして低くはない。
恋人達が、どんなシチュエーションに似合うかは、付き合った後で両者会談の上で同意決定しなければならない。
こ〜ゆ〜台詞を無邪気に言い放ちグイグイ来る男は、恋愛ドラマ等では“イタいザコキャラ”として設定されることが多い。
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