恋の奴隷
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 これを書いている2018年春。世の中ではセクハラ、パワハラ、モラハラ等各種ハラが猛威を振るっている。
 裏を返せば、ハラ認定のハードルがどんどん低くなり、つまりはあちこちに地雷が埋設されているみたいで、どえらい窮屈な世の中とも言えよう。
 そして、吊るし上げ社会の通例として、密かに表現の自由は失われ、保身の自主規制とやらが蔓延していくのである。
 わざわざ公表はされていないけれど、昭和のレコードでは普通に発表されていたのに、同様の理由でCD化されていない楽曲は枚挙に暇がない。

 こらからも、人知れず闇に葬られる歌は加速度的に増加するのは間違いないだろう。

 この曲、題名の“奴隷”という単語だけでももはや危険水域だが、内容はもっとヤバいと思われるのだ。
 まず“奴隷”の例示として“膝にからみつく仔犬のように”と表現している。
 「仔犬は奴隷ではな〜い!」
 動物愛護協会が黙っていない。
 更には、主人公が致命的な発言をしているのである。

“私が悪い時には どうぞぶってね”

 このオンナ、相当“M”の傾向が見られるが、性癖はともかくドメスティック・バイオレンスの依頼を明言したら完全にアウトである。
 この楽曲を公に発表すれば、レコード会社の門前にプラカード掲げた動物愛護協会及び女性市民団体が群なして シュプレヒコール吠えてる図が容易に想像出来るのである。
 今はまだ、辛うじて聴くことは可能だが、世間から抹殺される日はそう遠くない気がする。

   

犯罪者の音楽
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 前項とやや関連して。
 音楽家でも、当然罪を犯す者はいる。
 どういう基準があるのかは知らないが、我が国では音楽家が罪を犯すとレコード会社は即刻販売中止にし、て市場から全品回収処分にすることが多い。
 処分適用は法的な起訴の有無かとも思ったが例外はいくらでもあるし、ならば世論の影響かといえばそうでもなく、 些細な傷害事件でアウトだし、国民的アイドルグループメンバーが収監された際はセーフだった。どうやら、業界各位の力関係が大いに影響しているようだ。

 いずれにしても、作品をレコード会社の権利で抹殺するという対応に疑問があるのだ。
 楽曲の完成度と作者の資質は、関係がないような気がする。
 恐らくレコード会社としては、犯罪者の作品で商売する後ろめたさか、それ以上に世論の非難を回避する意図があるのだろう。
 公的には“罪人の音楽は商品価値がない”と具体的に明示したところもある。しかし、音楽の良し悪しを判断するのはあくまで聴衆であり、 レコード会社ではない。
 聴衆が“罪人の音楽は聴くに価しない”と看做したら、商品は売れなくなるだけのことであり、発禁にする必要などない。
 そもそも、事件が発覚する前まではレコード会社は胸張って“いい音楽です”と鋭意宣伝していたのに、罪人になった途端作品を見下すのはおかしい。
 聴いた音楽が素敵だと感じたなら、それを誰が創っていようと、例え猿の作曲だとしてもいい曲だと思えるのが、正しい音楽鑑賞だと思いたい。

 一方、音楽に作者の人格を投影させる聴き方もあるだろう。作者ありきの作品だ。
 例えば、海外では罪人の音楽を普通に売っている。殺人者の作品が音楽賞を受賞することだってある。
 殺人者は、いったいどんな創作をしているのだろう?
 そっち側に興味を持って聴きたいと望むことが、人として間違っているとは思えないのである。
 何でもかんでも蓋すりゃいいってもんでもなかろう。

   

長崎は今日も雨だった
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 流行歌の常套句として、ここで言う“雨”は失恋に起因する“涙”の比喩として表現されている。
 この女性は(男性かもしれない)、信じていた相手に理由もわからず去られて、冷たい風吹く夜の丸山一帯で相手を探し彷徨い、 ほぼ自虐的に泣きながら酒に溺れているのである。

 ここまでは、まあありえるかもしれない。
 筆者が問題とするのは、タイトルだ。

 長崎は今日“も”雨だった

 この“も”が“は”だったなら、短期的集中感情として同情も出来る。
 しかし、ここが“も”であることにより、女性の行為は反復性や習慣性を意味することになる。
 例えば、自分が振った相手が連日連夜、泣きながら泥酔状態で長崎の街を彷徨っているという噂を耳にしたら、これは相当怖いぞ。

 

ふりむかないで
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洗髪洗剤のテレビCM曲として世に出た歌である。
 CM映像では、街行く女性の背後から忍び寄り肩を叩いて振り向いて頂く、その期待と興奮と恐怖を醸し出していた。
 “ふりむかないで”という題名は、その先に訪れるかもしれない取り返しの付かない過ちを回避するための、魂の叫びなのかもしれない。 

ところが、何かがおかしい。
 この歌は5番まであり、それぞれ各都市の背中美人への語りかけで構成されているが、実は“ふりむかないで”と希望しているのはその中の一ヶ所だけなのである。
 その他を具体的に列挙しよう。

●札幌の人=待って欲しいな
 雪道を小走りに行く女性に
●仙台の人=ささやきたいな
 ゆかた姿が素敵でふと目があった
●名古屋の人=抱きしめたいな
 小さいスナックで、まつげに涙をためていた
●大阪の人=声かけたいな
 道頓堀のひっかけ橋で佇んでいる

以上4件については、予め相手を認知していて“振り向く女性”に対する緊張感ははじめからないのである。
 しからば、あえて“ふりむかないで”と、その背中に不安と恐怖をにじませる女性が闊歩する都市とは、いったい何処か?

それは“東京の人”だけだと、この歌は断定している。

 

セクシー・ユー
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 ここはひとつ、マジで想像していただきたい。
 場面は、灼熱の太陽さんさんと降り注ぐ海水浴場である。あちこち色とりどりのパラソル咲き乱れている。
 泳ぎ疲れたあなたは砂浜に座り、缶ビール片手にやきそばなんか食べながらふと見上げた視線の先に―――。

それがどんなものなのか知らないがジャマイカあたりのステップ踏みながら、つま先立ててモンロー・ウォークして行く 女性がいたとしたら、どう思う?

 俺はたぶん「何がしたいんだろ、あのネエちゃん?」と思う。
 遠目で眺めながらきっと、引く。
 目が合ったら、あわてて顔伏せるだろう。
 アメリカの古臭い青春映画でもあるまいし、少なくとも昼下りの浜辺がざわめくなんて、内海や新舞子の海水浴場ではとても想像できないのである。

 そんなことする女性とも、それ見て「セクシーだぜぇ」と浮かれる野郎とも、俺は絶対に友達にはなれない。

   

せんせい
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「また懲りずにしょ〜もないこと始めなすったそうで」
 いやらしい薄ら笑いで寄って来たのはご存知、井上である。
「うるせぇよ。ほっとけ」
「ネタひとつ、提供したげましょか?」
 どうやら、俺が久々に“店内点描”を再開したことを聞きつけて、何か思いついたようだ。
 どうせろくなもんじゃなかろうが、無視すると拗ねてイジケて面倒臭いので、形ばかり慎んで拝聴することにした。

「“せんせい”知ってる?」
「森昌子のか」
「そう、それ。さすが物知り。伊達にレコード屋だけで歳食ってるわけじゃ〜〜」
 こいつの話はいらん前置きが長い。
「話を進めれ。せんせいがど〜した、何処か突っ込み処あったか?」

 この歌、たぶん島の分校あたりを舞台にして、女学生が恋してしまった若い男性教師が、転勤かなんかで島を去ることになり、 少女は叶わぬ恋に胸焦がす内容である。
 別におかしなところなどない。
「浅いな〜。実に読みが浅いッスね」
 こいつの根拠のない上から目線が、いちいちウザい。
「ええスか。この女、相手の“名は”と言ってんでっせ」
「それがど〜した」
「わっかんないかなぁ。“名”はでっせ。“職業は”じゃないんでっせ」
 はは〜ん、ようやく読めた。この男はつまり、個人名が“せんせい”はおかしいと難癖付けてるのだ。
 う〜ん。実にくだらん。
 俺が呆れ果てて沈黙していたら、脇で聞いていた加治木が口を挟んできた。
「その論争、ちょっと待って頂きましょう」
 論争など、しとらん。
「なんだマグロ、文句あるか」
「加治木です。井上さんのミステリー、有り得ますよ」
 ミステリーなど、ない。
「何が言いたいおみゃぁ?」
「“せんせい”という個人名。不可能じゃありません。“せい”という名前の人は僕が知っているだけでも日本の俳優に二人、 存在しています」
「誰よ?」
「わかりませんか?」ここで加治木、ニヤリと笑うのが実にいやらしい。
「芦名星と平泉成ですよ」
 妙に納得して井上「ほぉ〜」と関心してやがる。
「だったらメバル。上の名前はど〜なんよ。“せん”なんてたわけた苗字の奴がおるかよ?」
「加治木です。もちろん、裏は取れてます」
「あ、おみゃあもしかして、あれだ。ジブリとかじゃねぇだろな。 残念でしたぁ〜。あれは“千尋”から来てるから下の名前なんですぅ」
 相手の返事も待たず、他人の落ち度に小躍りして攻め立てるのが、井上の特技である。
「違いますね」加治木は涼しい顔で答えた。
「じゃ誰だよ。言えるもんなら言ってみぃ」
「ふふふ―――」
 加治木はもったいつけて、犯人を解明するが如く厳かに告げた。
「千昌夫です」

「おお〜」

井上の完敗である。
「なるほどな、“千成”ってわけだ。ひょうたんみてぇだな」
「現実に有り得ることは間違いありません。したがって、このネタは店内点描から排除されます。 残念ながら浅はかなのは井上さんの方でしたね、へへへ」
「ヒジキおみゃぁ喧嘩売ってる?」
「もはや魚類でもありませんね。加治木です。井上さんは代金踏み倒すので、何も売りません」

 

初恋のメロディー
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 この先には確実に別れが訪れることを承知した上で、最後のドライブへ出かけた際の、女性視点の歌である。

 そもそも、別離が確定している相手とのこのこドライブに行ったり、更には“最後の接吻をする”という女性側の 感情が理解に苦しむところである。
 この状況に際して、男性側はいちいち躊躇いを見せることに女性は大いに不満を感じているが、そりゃそうだろう。 だってこれから別れるんだもの。
 もしかしてこの二人、まだ愛し合っているのに道ならぬ恋で外的圧力により無理矢理引き裂かれる関係だと想像されるかもしれない。
 そんな読者の甘ったるい考えは、粉々に打ち砕いて差し上げよう。
 この女性、別れる理由を自分で白状している。

“すてられたのは くやしいけれど
 すてられたのは 悲しいけれど”

 状況を整理してみよう。
 この女性はつまり、自分を“棄てた”と確実に認識している相手をドライブに誘い出し、白い波止場に車を止めさせて 暗くなるまでその場で拉致監禁し、その間にタバコに火をつけてあげたり接吻を依頼したりしているのである。

“あなたは何をためらうのかしら”

 実は躊躇っているのではない。
 脅えている。
 そして、最後に女性はこう言う。

“わたしの家は すぐそこなのに”

 行ったら、終わりだ。

 

お客さん26
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 人によっては、この“中古レコード店”経営が魅力的に見えるらしい。
 時々、お客さんから「将来は自分もやってみたい」とプチ相談をお受けすることもあるが、助言など何一つ出来ない。
 恐らく、世の同業者各位は皆同じだろうと想像する。このショ〜バイのマニュアルなんて存在しないのだ。 

 ただ、お客様との会話で無下に撥ね付けていては嫌われてしまうので、辛うじて言えるとしたら

「商品知識だけは多いに越したことはありません」

 中古骨董店は、“好きなものだけを扱う”というわけにはいかない。
 仕入れは基本的に買取りなので、各個人から送られてくるあらゆる商材に対応する必要があり、 拝見する作品にほとんど「何、これ?」では、話にならないのである。
 ウチも20年近くやっていながら未だに調査の毎日だし、こればっかりはデータや情報だけでは身に付かない。
 現物を扱ってようやく蓄積されるものだと実感しているからだ。
 そう言うと、お客さん――。

「全部は無理だけど、私ジャズには少々造詣があるので、専門店で攻めてみようかと」

 残念ながら“甘い”といわざるを得ない。
 専門店とはつまり、そのジャンルのマニアを相手にするということである。
 庶民のマニアやコレクターの商品知識は、奈落の底より更に凄まじく深いのだ。
 専門の看板掲げた以上、エゲツナイほどカルトな情報提供を当たり前のように要求されるし、 しかも、彼らはちょっとした逸品など既に所有している可能性が高く、彼等に売れるのは ほとんどが究極のレア品のみである。
 そんなもの、中古レコード店だって滅多に手に入らないだろう。
 商品知識で有る程度対応できたとしても、結局商品が提供できなければ営業は成立しない。

 もしかして神風でも吹いて成功するかもしれないので余計な助言は慎んでいるけれど、心の中では思っている。

 やめといた方が、よろしいかと・・・

 

恋人もいないのに
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 女性は、薔薇の花束抱いて“いそいそ”出かけて行った。

 少々気になって、調べてみた。

 いそいそ=(副詞)心が浮き立ち、喜び勇む様。

 字面や語感から“急ぐ”という意味も若干含まれているようだが、基本的には“享楽、歓喜”を表現している。
 歌の中では、実に3回も“いそいそ”している。
 さてそこでこの女性、薔薇の花束を抱いてウキウキルンルン軽やかにステップでも踏んで、何処へ何しに行ったのか?
 答えは歌詞の中に残されていた。

“白い波間に花びらちぎって
 恋に別れを告げるため”

 おいおい?
 少女趣味的に見れば、失恋の墓参りみたいなもんじゃなかろうか。
 涙の一粒でもこぼす状況だと思えるのに、この女性浮かれポンチの能天気なのである。
 別れたことが、余程嬉しかったのだろう。
 どんな恋だったのか、ちょこっと興味が湧いた。  

 

もしもピアノが弾けたなら
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 例えば、客もまばらな深夜のバー。あるいは、時間のゆったり流れるホテルのロビー。
 ロマンスグレーの初老の紳士がふと立ち上がり、片隅に置いてあるグランドピアノに座ると、 目を閉じ軽やかにショパンやリストを弾き始めたら――。 

 これは格好いいのである。
 彼が弾けることを知らなかった連れの女性は、瞳の中に星を浮かべて確実にスイッチが入るだろう。
 ただし、この際の選曲は重要。
 ソナチネやバイエル、ましてや“猫踏んじゃった”ならば、以降女性との連絡は遮断される危険がある。
 そして、同様にヤバいのが“弾き語り”なのである。

 ピアノ演奏技術に係わらず、ロマンスグレーがいきなり朗々と歌い上げたりしたら、 余程超絶美声でない限り、周辺の人々はギョッとして注目し、連れの女性は耳まで真っ赤にして顔を伏せるに違いない。

 この歌の主人公は、ピアノが弾けないために歌を贈れない点を主に嘆いている。
 ピアノ伴奏で自作の歌を弾き語ることこそが、唯一の愛の告白手段だと盲信している節があるのだ。
 違うんじゃないか?

 この手法が成立するのは、幼き頃よりピアノ教練に励み有る程度の演奏技術を持った上に、更に卓越した歌唱力を 躊躇なく発揮できるスキルを持ち合わせた者のみである。
 今現在ピアノが弾けない野郎が目指すには、とっくに手遅れなのだ。
 とっとと別の道を探さなければ、この恋は未来永劫成就することは、ない。

   

ブログ
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 当店では外部SNSは利用していない。
 と、ゆ〜ことにしているが、実はこっそり他所でブログを書いている。
 完全に個人的記事であり、店とは関係ないのでサイトにリンクは張ってない。
 ブログを書く目的は、ただのリハビリである。 個人的に、文章を考えることが最良のボケ防止手段だと考えている。
 誰に読んで欲しいという期待はないけれど、一応公開しておくことで誰かが読む可能性があれば、 みっともない文章は書けないと、それなりに頭は使う。
 この“店内点描”でやらないのは、時事問題に触れるため残すと陳腐になるし、フザけ過ぎて店の品格に係わる可能性もあるからだ。
 だから、ブログ側でも店の紹介宣伝は一切していない。
 書き捨てるだけで何の活用もしていないので、読者はいない。
 こっちが本番だと考えているけれど、なかなか手間がかかるので、ほぼ年刊になってしまった。

 

贈る言葉
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“信じられぬと嘆くよりも
 人を信じて傷つくほうがいい” 

 一見、含蓄ある人生の指針に思えるがこの思想、大前提に誤りがある。
 人を信じて裏切られた場合、必ずしも“傷つく”だけではないのだ。

 先般、隣国の南北で歴史的会談が実施され、全世界注視する中で雪解けの第一歩が演出された。
 歓迎する世論の中で、やはり多数は「まだ信じられない」と懸念を消してはいない。かの国は過去何度も裏切りの実績があるからだ。
 その度に国際社会は“やっぱりね”を学習してしまった。
 “信じられぬ”は“嘆き”をとっくに通り越して怒り、呆れ、諦めへと変容している。
 それでも、さしあたり“いいこと”を言っている以上、信じるしかない。
 しかしかの国の場合、裏切られた場合につく“傷”が尋常ではない危険があるのだ。下手をすれば“戦争”に直結するかもしれないなら、 情に訴えて“傷つくほうがいい”などとは言ってらんないだろう。

“人を信じて死んじゃうよりも
 信じられぬと身構えていたほうがいい”

TPOによっては、そんな現実もあったりするのだ。

 

to be continued
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