識者に言わせると、当店のホームページは絶望的に“ダサい”んだそうだ。
わかっている。もともと“格好よさ”や“お洒落”で勝負はしていない。機能を重視している。
あ、なんだろうこの頬を流れるしょっぱい水わ?
白状すれば、お洒落で格好いいサイトなぞ、俺の頭ではよう造らんのである。
そ〜ゆ〜こと言うと、どこで聞くのかもみ手で「おまかせくだせぇ」てのがワラワラ寄ってくるが、
見てくれに金払う気などないので、ほっといてくれると有難い。
ご承知の通り、前のページまでは縦書きである。
やはり文章読むのは縦書きだろうとのこだわりがあるからだ。なんとなく“文学的”な香りが漂うでしょ。
しかし、多くのお客様には正常に表示されず、ミミズが腸捻転するくらいノタクッている筈だ。
このコンテンツを始めたのは10年以上前。まだ“あいほん”とか“もばいる”なんて一般的ではなかったのに、
瞬く間に新興勢力“リンゴ陣営”やら“安藤弄井戸”やらが台頭し、しかも奴等は“窓陣営”を切り捨てにかかった。
わかりやすく言えば、“リンゴ安藤連合軍”の陣地では旧“窓陣営”の言語が通用しなくなったのである。
更には旗色悪くなった“窓陣営”までもが“リンゴ”に擦り寄り古い住民を見放したため、
難民となった人々は苦難の果てに“連合軍”に新天地を求めるしかなかったのだ。
ウチもボロ舟で激流を乗り越え“スマホ、モバイル”対応に尽力したけど、もはや時代の荒波に翻弄され矢尽き刀折れた。
以前のページが見られない方々には諦めて頂く。
アナログレコードはどうしたってCDプレーヤーでは再生できないのである。
もともと扱い商品が骨董なので、店構えも骨董で行こうと居直った。
どうせ近い将来、現在の最新コンテンツも全面仕様変更を強いられるだろう。その頃には、俺たちは高い確率でもういないから、
知ったこっちゃないのである。
見れてるお客様だけ、もうしばらくの間ご贔屓よろしくお願いします。
皆様、ご自身の卒業アルバムを思い返して頂きたい。
どんな製本だったか。
公立なら表紙はほとんど厚紙のコーティング仕様で、多少リッチな私学でもビニール貼り程度だったのではないか。
本革貼りなんて、まずあり得ないのだ。
この女、どんだけゴージャスなお嬢様学校に通っていたのか。あからさまに価値観の違うブルジョアが、 いくら郷愁語ったところで共感なぞして溜まるか。
と、思っていた。
ところが――
電車に乗っているのだ。
おかしい。富裕層は庶民の移動手段を利用するわけがない。
さては、転落したな。
流行の韓流財閥ご令嬢みたいに、何かの不始末しでかして没落したに違いない。
そもそもこの歌、相手の性別を明らかにしていない。異性への恋心と思わせる巧妙なワナが仕掛けられてはいるが、
実は「遠くで叱って」とは、マスコミ野次馬に対する姑息な自己批判を滲ませていたのだ。
さすが天下の歌姫。
やりくちがいちいち、深い。
以前、“かもめはかもめ”を分析したが、やっぱしまだやってた。
この人、ちょいちょい男を見下す。
“縦の糸はあなた 横の糸はわたし”
逆ではないのだ。
ダメージ・ジーンズを見れば明らかなように、あれ、大概縦糸が先に擦り切れて横糸だけがいつまでもヒラヒラ残っている。
さすが天下の歌姫。
やりくちがいちいち、巧妙。
化学的な表現の誤りを糾弾する
“湯気”は天井からポタリと落ちない。
“湯気”とは、化学式“H2O”=水が、加熱により形態変化した“気体”を表すのであり、 天井板に付着し冷却され落下したのは、紛れもなく水に戻った“液体”なのである。
屁理屈こいてやがると嘲笑したあなた。
もともとは“湯気”なんだからええじゃんかと、安易に妥協した君。
落下した水は、その行程に“湯気”があるからいいというのだな。
ならば、尋ねる。
その過程は、どこまで許されるのだ。
例えば、道端の草むらで足の裏にグニャと踏んだとき
「あ、ぺディグリーチャム踏んだ」
と、言えるか?
例えば、鉛筆をとってもらうのに
「あ、黒炭を木材で挟んだ細い棒をよこせ」
と、頼んだら、相手はどんな顔する?
嫌いで別れた“元彼”が
「おめぇは俺の彼女だよな」
ヌケヌケとそう言っても、許せるか?
現実を正確に認識し、的確に表現しておかなければ、あちこちトラブるぞ。気をつけよう。
レコード盤の買取をしていると、時々荷物の中にサイン色紙が紛れ込んでいることがある。
ウチではサイン色紙の査定はしないので、お客様に問い合わせるとほとんど「いらん。処分して」と言われる。
もちろんサイン色紙を商品にして金取るつもりもない。その歌手の作品をお買い上げ頂いたお客様に先着で進呈している。
ただ、誰のサインなのか、ワカランのである。
字面だけ見ても、書き殴った画像などまず解読できない。当然持ち主はファンだったろうから、同時梱包送付された商品の中から照合して推理するのだが、
決め手がない。
ネットで、その歌手のサイン画像でも出てれば同じだと判定できるけれど、そんなん希である。
いったい、あんたは誰?
ファンのお客様に差し上げればさぞ喜ばれるだろうが、解読のしようがないのである。
このご時勢だもの、どこかに“著名人サイン解読士”なんてのがいるのかもしれんが、探すほどのことでもない。
そんなんが、在庫棚に何枚か、ある。
遊園地のメリーゴーランドで回る馬は、ほとんど樹脂製である。
つまり、堅い。
“たてがみが揺れる”という状況を想像してみた。
もしかしたら、どこかの遊園地ではタテガミだけ植毛しているのかもしれない。見たことないが。
だったとしても、一般メリーゴーランドの回転及び上下動は緩やかで、揺れることはない。
タテガミが揺れるということは、当然乗車している客の毛髪も同様に揺れてなければならず、
毛髪が揺れるほどの振動あるいは移動速度は凄まじいと想像される。
削岩機ほどの激しい上下動しながら、高速回転させられたら余程の健康体でも、きっとゲロ吐く。
やや、この説は現実性に乏しい。
異説として、メリーゴーランドと称しながら、実は本物の馬に客乗せてロータリーを回遊する乗馬施設という可能性もある。
それでも、通常歩行ではあまりタテガミは揺れず、少なくとも駆歩以上の速度が要求されるため、
それはもはや“馬術競技”の範疇となり素人の、しかも若い女性が対応できるレベルではなかろう。
“身体が熱くて指先が凍える程冷たい”のは、あなたが瀕死の状態になっているからじゃないのか。
現代においては、自転車事故が社会問題化している。
製造技術進歩のおかげか、自転車でも高速走行が可能となり、接触した際に被害者が重症または死亡する危険もある。
自動車同様、自転車も走る凶器に成り得るため、交通安全の啓蒙が必須である。
“君を自転車の後ろに乗せて”二人乗りは立派な交通違反である。すぐやめなさい。
“ブレーキ一杯握り締めて”
先にも述べたように、自転車製造技術は進歩している。当然ブレーキ制御性は完璧でなくてはならず、しかも彼は
“一杯握り締めて”いるのだ。
完全停止しないで、ど〜する?
俺が乗ってる安物自転車でさえ、ブレーキ握り締めれば斜面30度以上の急斜面でもタイヤは微動だにせず、
むしろタイヤ設置面が滑って自転車ごと転がり落ちるに決まっている。
ところが彼の場合その状態で“長い長い坂道をゆっくりゆっくり下ってく”らしい。
完全に整備不良の欠陥車両なのである。
ブレーキゴムなど、とっくに擦り切れて黒い粉末になってやしないか。
そんなん乗ってると、あんた死ぬぞ。
ふと気になって調べてみた。
前のページ『episode18』を上げたのは2011年8月。
5年以上ほったらかしにしてあったのだ。
ご、ご、ご、ごねん!
激しく、吃驚した。
5年といえば、オリンピックが2回あり、大学入学した若者が就職していて、生まれた赤ん坊が5歳になる歳月である。
間が空いたのは、後付でいくらでも弁解はできるけれど、もともと、誰に期待されてるわけでもなく、
スタッフのガス抜きと自分の脳内リハビリではじめたコンテンツだから、
特に反省や罪悪感があるわけでもなく、ただあまりに実感がなさ過ぎて愕然とするばかりである。
再開したのもただの気紛れで、店内にガスが溜まったというわけではないけれど、
少々俺が馬鹿になってるかもしれないという危機感はあった。
今更、このページに迷い込む人は希だと思うが、もし魔が差して読んでしまったら、そして、クスリとでも微笑んでいただけたら、 それはそれでお互いに幸せなことでしょう。
「死ぬ死ぬ」という奴に限って、まず自殺などしないとはよく言われることである。
誰にも何も言えず、内に篭って苦悩する者ほど衝動的愚行に走るらしい。
逆説的に、この歌みたいに
“死にはしないわぁ”
と、公言して憚らない人は、ある意味ヤバいゾーンに片足突っ込んでいるのかもしれない。
けしてノスタルジックでメルヘンチックな歌ではないのだ。
前項からの流れで――。
はるみとさゆりが問いかけていた。
“あなた死んでもいいですか”はるみ談『北の宿から』
“あなたを殺していいですか”さゆり談『天城越え』
聞かれりゃ普通、両方やだ。
そもそも、ド直球でそんなこと聞くか?
ど〜ぞと肯定したら、あんたそ〜するのかよ。
しそ〜だから怖いのである。
昭和の女は、ど〜にも血生臭い。
B'zファンの間では、既に語りつくされた感のある、歌詞の謎。
“いつかのメリークリスマス”に出てくる椅子の件である。
クリスマスプレゼントに椅子を選び、それを電車に乗って持ち帰ってくる男の話だ。
もともと彼女が欲しがっていたからという大前提により、男は椅子をチョイスしたことになっている。
口に出して欲しがるからには、チンケな丸椅子とは考え辛く、椅子の基本性能たる“座り心地”
を要求するならある程度のサイズを想定している筈である。
もし、見場だけを重視した小物を言うのなら、あえて“椅子”といわず“インテリア”あるいは“置物”とするのが好ましい。
まさかエマニエル夫人愛用の巨大な籐椅子ではあるまいが、それだと男一人で運搬困難以上に電車のドアを通らないだろう。
いったい、どんな椅子だったのか?
つまり、一般感覚においてこの歌、情景描写と感情移入が極めて難解にできている。
そこで登場、例の井上の見解である。
「簡単なことじゃねぇすか」
相変わらず、エラそうである。
「どう簡単なんだよ」
「椅子が特殊だったんスよ。女が特殊な椅子をオーダーしたってことよ」
「特殊?」
「わからんスかねぇ。椅子で特殊つったら、一個しかねぇでしょ。特殊浴場御用達の真ん中の凹んだ、アレでしょ」
「はあ?」
こいつの考えそうなことでもある。
「たぶん、それ聞いて男ウキウキだったんじゃねぇすか。あれなら持ち運びもできるもんね。そんで野郎はそれ買って、
剥き出しで電車乗って帰ってきたんだ」
「まさか」
「でしょ。そう思うでしょ。だから女もそう思ったのよ。秘密のお願いだったのに、堂々とスケベ椅子持って来る満面笑顔の男に、
何考えてるんだこいつって呆れ返ったに違いない」
「なるほど」
納得してしまったおのれが悲しい。
「んで、それがつまり、破局の引き金になり別れが訪れ、この悲しい曲が出来上がったちゅうわけさ」
「よくまあおみゃぁ、そんなこと考え付くな。関心するぜ」
「筋は通っとるでしょうが」
「万一、だとしても。むしろ、だったとして。そんなんを曲にして歌うか?」
「そこんとこは、俺は知らんがね。スーパーアーティストの考えることは、俺ら凡人には理解不能だもん」
口には出さなかったが、俺は思った。
“おみゃあの頭だって、俺らには理解不能だ”
実は、違う視点からこの歌の考察を始めたのだが、歌詞を吟味していたらモヤモヤが止まらない。
まず、冒頭“あの娘はどこの子”とあるため、多くの人は赤い風船を持っていたのは“どこかのあの娘”だと思っているが、
“この手をするりと抜けた”のだから、風船を持っていたのは“私”なのである。
つまりこの歌は、終始一貫“私”の心象風景しか語っていないため“あの娘”は、本筋とは視覚的にも心理的にもまるで関係ないのだ。
「誰だ?あんた」
と感じるのが、正しい聴き方となる。
次に、この場合の風船について、当時のジャケ写を根拠として“ゴム製”である。ゴムは摩擦係数が高く“しっかり握り締めた”場合、
“その手をスルリと抜ける”ことなど、物理的に絶対あり得ない。
“何故だか”と自問している点から、自ら“しっかり”という表現に認識不足があったのかもしれない。
あるいは、風船表面にローション等強力な潤滑剤が塗布されていた可能性も棄てきれず、もしそうならそんなヌルヌルベトベトの風船を
握り締めている行為自体が不可解で、歌の根本を揺るがす別次元へと誘われるだろう。
はいはい、わかってますよ。
ここでの“風船”とは、実物の“風船”ではなく“大切な人”の比喩表現だがや、そんなことも読み取れんおみゃあはアホか。
そう筆者を口汚く罵った、あなた。
ま、ええでしょう。
“私のもとを去った彼”を“手から離れる風船”に例えて、失恋の悲しみをノスタルジックに表現した名曲だ。
なるほどね。ではあなた、2番を覚えていますか?
“隣の屋根に飛んだ 赤い風船よ”
“風船”を“彼”とするならこの男、隣の家に行ったことになるのだ。
どう思う?
別れた彼女の悲しみ覚めやらぬ間に、ヌケヌケと隣の家の女性とつきあうか?普通。
どこが、ノスタルジックだ。
ゲス野郎への怨念を炸裂させてしかるべき状況である。
おそらくこの女性、般若の形相で片手に包丁構えている。
“もうじき来てくれる”あの人は“小さな夢”という名の凶器持った助っ人に違いないのだ。
なんと恐ろしくおぞましいホラー楽曲と言える。
そして冒頭の“どこかのあの娘”は、これから始まる惨劇を見届ける傍観者としてのみ、この歌に存在しているのだ。
この項、久し振りで調子ぶっこいて、やや筆が滑った感があることをお詫びしておく。
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